制作行程がなぞです。という質問よりー1

リクエストに応えて。 

「絵画、デッサンができる行程が謎です。」というご質問、悩みを受けます。

動画や書物で描き方を勉強しても、どうしてもわからない部分がある。あるいは、その通りにやっても描けない。という疑問質問です。

率直に「デッサンが基盤となります。」とまずお応えしますが、

クエスチョンマークがより増殖してしまう、一番不親切な答えかもしれません。

 

物の「描き方」よりも「観方、考え方」が大切である、と私自身確信をもっており、その核となるものをアレンンジし、やりくりしながら描き進めていきます。もちろん全て完璧に、スムーズに運ばれるのではなく、制作中に優勢に立つ場合もあるし、劣勢に引っ張られる時もあります。制作行程の中での様々な状況に対して、どの札を出すか?どの引き出しを選べば良いか? というふうにゲームを楽しんでいる感じです。

ですから、そもそも、自動的に完成に至ることのできるある完璧な行程、魔法のような技法に頼って制作が行われるのではなく、観察力とそれに伴う考え方を経験の引き出しから選び、臨機応変に判断しながら制作します。

 

「観方、考え方」をとても大切にしていると書きましたが、それは、作り手の「経験」から得られたものなので、他人の目には直接簡単には、見えてきません。ですから「答え」としては、クリアーではない、はっきりしないものです。

逆に、「描き方、技法」は目に見えるものなので、一見、クリアーでスピーディーで信頼のおける情報かもしれません。

「経験」を可視化することは大変難しいことだと思います。反面、体験や、行程、技法を可視化する方が簡単だと思いますが、「可視化」が常に、正しい情報提供や教育につながるとは思いません。

 

経験とはなんでしょう。最初は、体験からはじまり、体験が経験に変化していきます。その変化していく過程が

重要なのだと思います。その変化が経験の中身だと思うのです。 

子供時代は初めてのことばかり、わくわく、どきどき。沢山試して、沢山失敗します。段々できるようになります。失敗も成功も全て体感します。その沢山の体感が知らずと感覚にしみこみ、記憶に染み込み、経験になるのだと思います。自分自身がどのように母国語を喋れるようになったのか、思い出せるでしょうか?経験の中身はなかなか見えにくいものなのです。

 

「技術的なことを可視化されたもの(画像、動画、書物)から学ぶ」これは一つの方法として良いと思いますが、そればかりに頼っては、本当の学びにはなりません。体感的な体験が経験になって初めて学びになると思います。

経験が本来見えにくいものであるのにもかかわらず、なんとかして簡単に習得するために、視覚の情報を鵜呑みにしてしまう。ここに学びの履き違えがあると思うのです。私たちはそもそも視覚を主に利用して社会生活を築いているため、視覚的な、可視化された情報が正しいと思い込みます。自ら発した視覚的情報に溺れる傾向があるのではないでしょうか。